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インタフェースの大変動
最初の30年は始まりにすぎなかった

InterCommunication No. 60 Spring 2007 特集「デザイン/サイエンス」 に寄稿 渡邊恵太

本稿は、近年のインターフェイス・デザインの考え方の変化について述べるものである。最初にインターフェイスの視点から現在動きの活発な企業や考え方について紹介する。そして、その企業に共通する点から認知科学的アプローチの限界を示唆する。それを背景に、これからのインターフェイスの考え方について述べる。

はじめに

今日のユーザー・インターフェイス研究の流れは、大きな変化を見せはじめている。たとえば、Macintoshとユーザー・インターフェイスは切っても切れない関係で、常に先端をリードしてきた存在である。そのApple社が先日の「Macworld Expo 2007」にて、「最初の30年は始まりにすぎなかった(The first 30 years were just the beginning)」というコピーを掲げた。そして同時にApple Computer社からComputerの単語が外れApple社となった。つまり、Appleはコンピュータだけの会社ではないことを明確にしたのだ。ユーザー・インターフェイスの研究者は、コンピュータをコンピュータと意識させないようにすることを目指してきた。その意味で、ようやく30年が経過し、ユーザー・インターフェイスの研究の成果が見えはじめたのかもしれない。
 さらにApple社以外の新しい企業も動きが活発だ。たとえば、任天堂やIDEO、そしてGoogleといった企業だ。これらの企業も、いまやユーザー・インターフェイスの考え方なしには語れない。改めて考えてみると、30年のユーザー・インターフェイスという産業の歴史は短いものだ。それに、その30年の多くはオフィス環境を中心としたユーザー・インターフェイスの展開だった。それに比べれば、今日のユビキタスやモバイル環境におけるユーザー・インターフェイス研究の歴史はようやく最初の一歩を踏みだしたにすぎない。
 さて、Apple、任天堂、IDEO、Googleなど、今熱い企業はユーザー・インターフェイスを軸にそれぞれが新しいスタートを切った。今後ますますユーザー・インターフェイスを軸にコンピュータ・テクノロジーの利用は拡大するだろう。

Apple、任天堂、IDEO、Google、そしてユビキタス

これらは、いずれも現在活躍している企業、もしくは考え方である。これらの企業に共通しているのは、積極的にコンピュータのテクノロジーを利用し、インターフェイス・デザインに力を注いでいることである。ただしこれらの企業は、従来のインターフェイスの考え方を超越したところに現在到達している。まず、それぞれの企業の特徴をインターフェイスやヒューマン・コンピュータ・インタラクション(HCI)の観点から紹介していこう。

Apple: ユーザー・インターフェイスからユーザー・エクスペリエンスへ

Apple社は元祖パーソナル・コンピュータの会社であり、元祖ユーザー・インターフェイス(UI)を軸にした企業である。今日、iPodやiTunesといったサービスへの展開には目を見張るものがあり、単純にパーソナル・コンピュータをつくる会社というイメージではなくなりつつある。
 さて、Appleが生みだすさまざまな製品、サービスを見ていると、いずれも「ユーザーとの関係」を深く意識したものが多い。その意味で、サービスというレベルも含めたユーザー・インターフェイスを展開しているといえる。具体的には、Appleが提供する新しいかたちの「音楽を聴く」という経験は、iPodだけで成立するものではなく、iTunesも提供しなければ成り立たない。他にも成功の要素はあるが、一言でいえば「ユーザー・エクスペリエンス」という言葉でまとめることができるだろう。
 つまり、今日形のない情報が軸である以上、モノのインターフェイスの良し悪しだけを語ることはできず、最終的に「ユーザーがどういった経験をするか」が重要になってきているわけである。Apple社のやり方は、さまざまな先端技術をどうやって人間に提供していくかの手本となるものといえる。

任天堂:インタラクション・デザインの最先端

テレビゲームという玩具の会社といった印象が強い企業である。玩具である以上、子供の世界のものということもあり、Apple社などのパーソナル・コンピュータという道具をつくる会社とは正反対の世界に見える。しかし、任天堂は、目的の違いはあるにせよ、Apple社と同様に先端の情報機器を一般の人々に対して提供している。そして、インターフェイス、インタラクションのデザインという意味では最先端をいく企業であると筆者は認識している。ファミコンとともに育ってきた世代にとってみれば、Windows 95が登場して、それに触れたとしても、実はファミコンの経験のほうが圧倒的な「すごみ」と完成度があり、パソコンのUIやウェブ・ブラウザーが提供する情報は、むしろ貧弱な世界になったという印象を受けざるを得ない。この「すごみ」はどうやって作りだされているのだろうか。
 近年、テレビゲームが文化として認識されはじめたり、アカデミックな視点で分析されたりすることも増えてきた。ただ、社会学的にマクロな視点でテレビゲームを捉えることが多く、インターフェイス・デザインという視点から大きく取り上げられることはいまだに少ない。おそらく、任天堂をはじめゲームソフト会社はインタラクティヴなシステムをつくるための考え方やノウハウを蓄積していると考えられるのに、それを一般化したり体系化したりして世に出していないためであろう。しかも、ときにはそれをクリエイター個人のセンスと見なしていることも少なくない。
 任天堂がインターフェイスの企業であるという認識がこれまで薄かったのは、インターフェイスという言葉がまず一般的ではなかったことにも原因がある。ゲームは所詮ゲームであるという認識から、任天堂のやり方に注目が集まらなかったこともあるだろう。しかし、近年大ヒットしている、タッチペンを使ったモバイル端末である任天堂DS、そして先日発売されたばかりの、加速度センサーを利用し片手で利用可能なリモコン型コントローラーが特徴のWiiというゲーム機は、いずれも「インターフェイス」を前面に打ちだした製品となっている。さらに、ゲーム人口の拡大のスローガンを掲げ、新しいユーザー層に対するゲームを柱にした新しい事業展開を図っている。これによって、いまや任天堂はインターフェイス、インタラクション「デザイン」の企業であるという認識が広まりつつある。
 タッチペンやWiiリモコンばかりが目立つが、グラフィカルな画面デザイン、音の利用の仕方においても、以前から任天堂のゲーム機はPCのGUIのはるか先を進んでいるといっても過言ではない。たとえば、「スーパーマリオ」だけ見ても、とにかく参考になる点は多い。

といった例がある。
 他にも、ゲームの特徴として、数個のボタンだけで、実に多彩なことを可能にする仕組みを導入している。たとえば、車や飛行機の運転、サッカー、野球、格闘技。たくさんの種類のゲームを画面上で実現していること、さらに、身体を使わずにただ指を動かし、画面を見つめているだけで、ある種のリアリティや経験が得られていることもポイントである。この意味を改めて考えてみる価値はあるだろう。言い換えれば、Wiiリモコンのように、実世界で私たちが本当にそうするように体を動かすことでゲームをすることは、わかりやすさという点では優れているが、自分の身体の制約とゲーム画面内の制約の不一致によって、ゲームの世界と実世界が乖離してしまう可能性も考えられる。これら人間の知覚や制御などの観点からも、今後十分議論していく必要がある。

Google:もはやUIとインタラクションの会社

Googleといえば検索エンジンの会社として有名である。ペイジ・ランクというユーザーのリンクによる価値づけによって検索結果がリストアップされるという特徴を持つ検索エンジンである。つい先日までは検索サービスしか提供していなかったが、今日、メールや地図、カレンダー、デスクトップ検索などまで提供する会社となった。そのほとんどがウェブ・ブラウザー上で利用可能な点も大きな特徴といえる。ユーザーがそこにアクセスするだけで、ダウンロードやインストールを意識することなく、ユーザーは常に最新のアプリケーションを利用しつづけることができる。
 じつはこういったインターネット上でのメールやカレンダー、地図などのサービスはGoogleが始めるだいぶ前からあった。しかし、Googleは従来のサービスとは異なりAjax(Asynchronous JavaScript+XML)と呼ばれる手法を多用し、クリックなしに動的に変化するユーザー・インターフェイスを実現した。たとえば、従来のウェブ上の地図はドラッグして動かすことはできなかったが、Google Mapsでは地図をドラッグして動かすことが可能となり、ウェブ関係の開発者を驚かせた。彼らのあいだでそれ以後Ajaxという手法が流行し、それは今日も続いている。Ajaxは新技術というより、昔からあった各技術の組み合わせであり、同じようなことを実現できる仕組みとしては、他にもAdobe 社のFlashがあり、地図をドラッグするというプログラムを書くのには、むしろAjaxよりもFlashのほうが適している面がある。開発者が驚いたのはその点でもある。つまりわざわざ問題の多いJavaScriptを使って、Flashでやるようなことをしているという点である。
 ここからわかるのは、Googleはユーザー・インターフェイスに対して相当のこだわりを持っていることである。そして、そのことはGoogleの根本にある考え方とも関係してくる。Googleにおけるユーザー・インターフェイスの考え方は、従来のユーザーにとって「使いやすい」システムを提供するためのユーザー・インターフェイスとは異なってくるのである。これについては後述する。

IDEO:方法論のプロフェッショナル

IDEOはパロアルトにあるインタラクション・デザイン専門の会社で、人類学、工学、デザインなど、さまざまな専門を持つ人材が共に働いている会社である。IDEOの特徴は徹底した「方法論」の確立と、それを忠実に実行する点である。アイディアを出す手法にも徹底した独自の方法を取り入れ、また現場主義の調査・分析、即座にプロトタイプの試作を開始するなど、最終的なアウトプットまでの段取りができあがっている。まさに二一世紀のものづくりと呼べるような、プロセス、仕事場、チームづくりなどあらゆる面でデザイン業界をリードしている会社である。IDEOが成功している理由は、世の中の物事がもはや一人では解決できないほど複雑であり、チームワークで仕事をしなくては解決できないような問題である、ということに直面するその姿勢にある。その際、さまざまな専門家が必要になってくるが、単純に集まっているだけでは専門家どうしの衝突で終わってしまう。しかしIDEOは、そこに「方法論」を確立し、その方法を中心として、それぞれの明確な役割が明示化されたタスクを遂行していける環境となっている。
 後に述べるユーザー指向ユビキタスにおいて、民俗学的手法の必要性について触れるが、IDEOは以前からその点を実践しており、実際に多数の成果を出している。これも現在の私たちの生活には、多くのモノをはじめ、その周辺にはたくさんの社会的制約があるからであり、人間工学的、認知・心理的、そして今日、社会的な視点からものづくりを考えなければ、最終的にはユーザーにとって「使いにくい、使えない」モノと見なされてしまうのである。

ユビキタス:「遍在」は本質ではない

ユビキタス・コンピューティングという考え方は、今日の情報機器関連における大きなテーマの一つだろう。ユビキタス・コンピューティングはXerox社のパロアルト研究所(PARC)のマーク・ワイザー(Mark Weiser)によって一九九一年に提唱された概念である。今日、ユビキタスは、「遍在するコンピュータ」という「いつでも、どこでも、だれでも」というスローガンとともに広まった概念だと思われている。しかし、提唱者であるマーク・ワイザーの論文「21世紀のコンピュータ」(『日経サイエンス』一九九一年、一一月号)を読んでみればわかるが、それは少し違う。

有線と無線でつながれた数百台ものコンピュータは、私たちがその存在を意識しないような形で生活の中にとけ込んでいく。

最も完全な技術とは、表面に出てこない技術である。日常生活という織物の中に完全に織り込まれてしまっていて、個々の技術自体が私たちの目に見えなくなっているものだ。確かに五〇〇〇万台以上のパソコンがすでに販売されてはいるが、コンピュータはそれだけで単独の世界を構成しているにすぎない。

こうしたコンピュータの「消滅」は、技術的発展の帰結ではなく、人間の心理的な帰結によるものである。あることを十分に理解すると、人間はそのものを意識しなくなる。たとえば街角の標識を見たとき、情報を読んでいると意識せずに情報を取得するだろう。(……)Herbert A. Simonはこの現象を「熟達」と呼び、また哲学者のMichael Polanyiは「暗黙の次元」と呼んだ。心理学者のJ. J. Gibsonは「視覚的不変項」と呼び、哲学者のHans-Georg Gadamerは「地平」、またMartin Heideggerは「熟練」と称している。PARCのJohn Seely Brownは「周辺」と呼ぶ。これらすべてに共通なのは、それを意識せず使うことができ、当面する目標に集中できることである。

興味深いのはこのあたりの話であるのに、最近のユビキタスではこういったことが引用されてくることはない。「遍在」しか出てこない。さらに興味深いことに、マーク・ワイザー本人は、この「ユビキタス」という言葉は誤用だったことを示唆している。それは、タンジブル・ビットを提唱した石井裕氏の寄稿論文からわかる。石井氏のタンジブル・ビットの考え方に共感したマーク・ワイザーは石井氏とメールをやりとりし、マーク・ワイザーは本当はタンジブル・ビットのようなことをやりたかったとしている。以下は石井氏の寄稿論文からの引用である。

しかし最も深刻な問題は、ネーミングにあった。彼がこの論文の中で使った「ユビキタス」というラベルは、彼が本当に実現したかったビジョンにふさわしいラベルではなかった。コンピュータが一人あたり何台あるか、それが分散しているか、集中しているか、携帯型か、環境埋め込み型かは、究極のインタフェースの理念とは本来無関係のはずであった。後にマーク・ワイザーは「Calm Technology」という言葉を使って、アンビエントなインタフェースを強調しようとしたが、ユビキタス・コンピューティングという概念は「遍在するコンピュータ」と誤解され、すでに一人歩きを始めていた。本人自身がそのことを最も気にかけていた。
 (……)彼がメールの中で述べたように、ユビキタスという言葉は、彼の思想を表現するには不適切なラベルだったのだと思う。
マサチューセッツ工科大学メディアラボ・タンジブル・メディア・グループ・石井裕「特別寄稿 ユビキタスの混迷の未来」『ヒューマンインタフェース学会誌』vol. 4、no. 3、二〇〇二年

 このように、今日の「ユビキタス」という言葉にはそういった背景の思想がなく、「いつでも、どこでも、だれでも」と、ある意味わかりやすくなったが、同時に簡略化されたかたちで流通してしまっている。遍在ということ自体は、哲学というほどのものはない。コンピュータが小型化し増えていくのは予想に難くないことだ。もちろん、ユビキタスという言葉によって産業が活性化されたことも事実であるので、ユビキタスが悪いということではない。
 しかし、ユビキタスの考え方は、「熟達」「暗黙の次元」「視覚的不変項」「地平」「熟練」「周辺」などの、人間の心理や認知的性質から出発しているところが見逃されているのがもったいない。現在、多くの大手企業がユビキタスという目先の言葉に引っ張られ、技術的にはセンサーやネットワークを使えるものの、「つくったものを何に使うか?」というところで悩んでいる企業が多い。事実そういった相談を研究室で受けることも少なくない。筆者の研究室では以前から、こういったセンサーやネットワークなどを中心とした、いわゆる現代のユビキタスを「技術指向ユビキタス」と呼び、マーク・ワイザーがもともと述べていたようなユビキタスを「ユーザー指向ユビキタス」として区別している。ユーザー指向ユビキタスは、日常生活で人間がどのような生活を送っているかという視点から、必要な技術を持ち込む手法をとる。そこで研究室では、社会学やエスノグラフイー(民俗学的手法)などの手法が不可欠であると認識しており、同時にプロトタイプを製作して実際に体験できるレベルにすることが不可欠であると考えている。なぜなら、試作が新しい対象である以上、まず体験を可能にしなければ、その良し悪しは議論できないためだ。仮に試作なしに議論し言語化や定義をしても、実際に試作し体験してみると、その言葉の定義は揺らいでしまうことさえある。

「認知科学の枠を超える」という共通点

Appleも任天堂もIDEOもGoogleも、そしてユビキタスの考え方も、それらに共通しているのは認知科学の枠を超えつつある点だ。いずれの企業も人間を再定義しつつある。私たちは何らかのパラダイムのもとに生きており、人々の考え方はそのパラダイムに影響されている。近代のパラダイム形成には認知科学が影響してきた。しかし、今日認知科学が作りだしてきた「人間観」にも限界が見えつつある。
 認知科学は総合的な科学で、その中心は分化したさまざまな研究領域から成り立っている。認知科学は一九五〇年代末に誕生し、人工知能と計算機科学とセットで発展してきた。今日もその考え方は私たちのコンピュータへの考え方の暗黙の前提として大きな影響を与えている。
 ちなみに認知科学の定義は、たとえばWikipediaによれば、「情報処理の観点から知的システムと知能の性質を理解しようとする研究分野」である。ここでわかる通り、この情報処理という言葉の影響は、今日多大なものである。
 認知科学によって今日も続いているのは、「人間も情報処理をするコンピュータみたいなものだ」という考え方である。そして同時にコンピュータも、センサーを人間の感覚に相当するものと見なし、CPUが脳みたいなものだという比喩が自然と立ち現われる。さらにそこに人工知能の世界が生まれる。人工知能の最も典型的な例は、チューリング・テストの合格条件を満たすような、すなわち「人間と同じ知性を持つ仕組みをコンピュータでつくること」である。最近ブームでもあるコンピュータによるロボット研究開発の分野も、その延長といっていいだろう。認知科学と人工知能はほとんど同じような歴史を歩んできており、「コンピュータによる人間の知性の再現」は、コンピュータ・テクノロジーの夢であり、計算機科学の最も高度な領域であったといえる。
 そして、この影響は今日も続いており、幅広い。たとえば多くのSF漫画やアニメ、映画が、じつはこの前提のうえに成り立っており、だれもがコンピュータを用いて「人間」のようなシステムができると信じて疑わない。たとえば、『二〇〇一年宇宙の旅』に出てくるHALというシステム、最近の『攻殻機動隊』や『新世紀エヴァンゲリオン』なども、アニメや映画とはいえ、人工知能の概念に強く影響されているものである。おそらく、コンピュータを人間として捉えるという比喩が「きわめてわかりやすい」ということがその影響の原因だろう。しかしながら結果的に、認知科学や人工知能の分野はフレーム問題などの多くの問題を提示しただけで、現在のコンピュータでは人間と同じような知性を持つシステムはいまだにできていない。研究者さえこのわかりやすい比喩の影響は大きいと予測できるが、アニメや映画のヴィジョンと現実とは明確に分けて考えなければならない。

テリー・ウィノグラード

人工知能の世界を先導していたテリー・ウィノグラードは、その研究経歴の途中で、人工知能の限界を示唆し、以後、人工知能の実現に批判的な立場をとるようになった。その後、HCIの分野に転身し、さらにその後、現象学に基づくソフトウェアの設計やソフトウェア・デザインの研究を行なっている。

テリー・ウィノグラードとGoogleの深い関係

さて、興味深いのはここからである。それは、このテリー・ウィノグラードが、Googleの創始者であるラリー・ペイジの指導教授であった点である。Googleのコアのアルゴリズム「ペイジ・ランク」の論文は、ラリー・ペイジとテリー・ウィノグラードの共著となっている。
 ペイジ・ランクのアルゴリズムは、簡単にいえば「人間の手によってリンクされたことを価値」としたアルゴリズムである。従来は、ある意味でコンピュータがウェブの内容を解釈して、ユーザーの入力したキーワードから適切なページを取りだそうというのが、ウェブ検索の大きな方向性であった。つまり、コンピュータが解釈するという人工知能的アプローチだった。
 しかし、ペイジ・ランク的なアルゴリズムでは、コンピュータが解釈することをせずに、ウェブにおいて〝人間がふだん行なっている行為〟に着目し、それを意味としたのである。それが成功の秘訣だったと考えられる。ウェブ上でも、ペイジ・ランク自体のアルゴリズムをレヴューする人が多いのだが、ペイジ・ランクの本質は、アルゴリズム自体というよりも、そういった〝ウェブにおける暗黙的な人間の活動をアルゴリズムに置き換えた〟ことに価値がある。

ペイジ・ランクとUI
ユーザーのやっていることを見よ

ペイジ・ランクの発想自体は、今日のHCIの考え方にも等しいものがある。つまり、インターフェイスの設計にあたり、「ユーザーのやっていること」を観察し、そこにヒントがあるという捉え方である。UIの設計の際に現場に調査しに行き、「何か使いにくいことはありませんか?」と訊くのはタブーである。なぜなら、ユーザーは自分自身がやっていることはわからないからだ。その場合、ユーザーの述べることは本質ではなく、何らかの原因から派生した勘違いということもある。したがって、調査において重要なのはインターフェイスの専門家が現場に共に入り、ユーザーの「いつもやっていること」を観察することである。観察によって「ユーザーの言っていることではなく、やっていることを信じろ」というのはいまや常識となっている。
 Googleが検索エンジンの価値基準に「ユーザーがリンクするという行為」をおいた点はHCI的であり、従来のウェブの内容をコンピュータに解釈させようとしたアプローチとは正反対である。その意味で、ペイジ・ランクは反人工知能的アプローチともいえる。そして、こういった反人工知能的手法がGoogleを成功に導いたとするならば、今後のコンピュータの捉え方は大きく変わっていくだろう。今日のWeb 2.0の世界はそういった潮流の初期段階であるともいえる。

ユーザー・インターフェイスの役割の変化
UIは行為を引きだすためにある

さて、このようなGoogleのやり方や、人工知能によらない手法でシステムを高度化する際に重要になるのは「ユーザーの行為」である。それはユーザーの行為が、意味をつくるためである。したがって、ユーザーの行為を引きだすことが、ユーザー・インターフェイスの役割になりつつある。
 人間の知性は何らかのモノや周辺と接触するときに表出する。厳密にいえば、私たち人間は常に具体的な環境の中にいる。それゆえにユーザーの行為は常に意味があり、行為は常にある特定の環境と相補的な関係で露わになる。
 その意味をどれだけコンピュータが把握できるようにするかが鍵となる。ここで重要なことは、ユーザーの行為の意味を解釈するのは、設計者でありコンピュータ自体ではない。少なくとも今日、人間を最もよく知っているのは人間自身である。したがって設計者がユーザーの暗黙的な行為の中に意味を発見し、それをコンピュータで汲みとれるように形式化できる仕組みをつくることが求められる。これがユーザー・インターフェイスの役割である。言い換えれば、ユーザー・インターフェイスの役割は〝人間の暗黙知を形式知に変換する〟ことである。

暗黙知を形式知に変えるために

ユーザー・インターフェイスの設計において、「入力」を作りだしてはいけない。わかりやすい例は、アンケートの自由筆記である。前提なしに自由筆記で書かれた内容は、コンピュータが解釈することがきわめて困難となるからだ。コンピュータで計算可能にするためには、パラメータ化が必要である。したがって、ユーザー・インターフェイスは「入力」の手段というよりも、行為によって価値の「調整」をする手段でなければならない。コンピュータへの入力、パラメータ化という点で「マークシート方式」があるが、これはコンピュータの形式そのままであり、このやり方は人間の賢さを露わにするには適切ではない。
 では、調整とは何か。下の写真は筆者の散らかった部屋の中であるが、これは暗黙知が形式知に変換された結果である。つまり、これは勝手に散らかったのではなく、筆者がそこに配置したのである。言いわけと聞こえるかもしれないが、これは人間の知性の一つにほかならない。〝移動可能なモノ〟が周囲にたくさん提供されたことで、よく使うものほど近くに配置し、そうでないものほど遠くに配置するという〝動かす〟調整行為が可能になったためである。これは〝近い│遠い〟などでパラメータ化が可能だ。

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 また別の例では、大量の音楽を聞くことが可能なユーザー・インターフェイスを持つアプリケーションを使ってもらえば、何が好きな曲であるかをパラメータ化することはできる。さらにより暗黙知的な領域では、音楽のサビ抽出の研究があるが、これは信号解析によるものが多い。しかし、店頭の視聴機で早送りや巻き戻しをして、最も聴かれる部分からメロディのサビが抽出できる可能性がある。また、カラオケのマイクに加速度センサーなどを取りつけ、動きが激しくなる部分からサビが抽出可能かもしれない。歌声の音量からもサビの抽出ができるだろう。このあたりは実際にプロトタイプを作成しパラメータを抽出しないと納得してもらえないかもしれない。しかし重要なことは、ユーザーにサビ抽出のために何かをさせているのではなく、あるモノを提供することで、それに対応する独特の人間の行為を引きだし、そこから意味を抽出できるという点が重要なのだ。
 このような視点でのユーザー・インターフェイスの役割は、循環し、またより優れたユーザー・インターフェイスを提供することである。形式知として蓄積されたデータがUIとしてフィードバックすることで、インタラクション・ループが発生し、「使う価値」が生まれてくる。Googleも多くの人が使うほどに、優れた検索結果一覧を返す仕組みを提供しつづけることができる。コンピュータが解釈する人工知能ができない以上、このような手法を用いて、今後もシステムの高度化が進んでいくと考えられる。
 また、インターフェイスのユーザビリティという点においても、単純に「人間にとっての使いやすさ」ではなくなってくる。それはつまり、間違いやすい行為の発生はパラメータ化にとってノイズとなるためである。したがって、ユーザビリティは「人間にとって」だけではなく、高度なシステムの質を維持するための必然的な要素となるだろう。

まとめ:コンピュータにおいてインターフェイスは最も高度な領域

今日、Apple、任天堂、IDEOそしてGoogleといった企業が実践している考え方が、インターフェイスやインタラクション・デザインを中核として産業に大きな影響を与えている。いずれも最新のテクノロジーと共にある企業であるが、これらの企業の共通項は従来の認知科学の枠組からやや外れた新しい人間観に基づき活動している点であることを見てきた。認知科学が人間を情報処理という観点から捉えたことは、今日もさまざまな分野で影響している。しかし、かつて最も高度な領域であった、人間が考えるようにコンピュータに仕事をさせてタスクを解決する手法は保留となった。その点で、HCIからのアプローチに期待がかかってくる。つまり、道具や環境とインタラクトする人間という視点から、人間の知性を定義してゆく必要がある。したがって、HCIの分野はコンピュータにおける最も難易度の高い課題になったといえるだろう。人工知能と共にあった認知科学のパラダイムは、インターフェイスやインタラクション・デザインの新しい局面において難しい問題を抱えており、私たちは新しい一歩を踏みだす必要がある。今後は、たとえば現象学や生態心理学、そしてエスノグラフィーなど、より現場に沿った地点から私たち人間の行為を捉える視点、つまり「日常で何をしているのか」を捉えるような視点が必要になるだろう。

2007.3 渡邊恵太