大学生になったころ、ふと「自由帳」という名前に疑問を持ち、「自由帳という名前をつける日本の学習帳すごい」と感動しました。自由とはとても難しい概念であるのに、小学1年生から自由帳(じゆうちょう)という名前の付いたノートを使うからです。そして、ノートを「目的で定義」することと、「スペックで定義」することが、ものを作ったり売ったりするときの発想において重要であることに気づきました。

自由帳
日本の学習帳、たとえばジャポニカ学習帳は「こくご」「さんすう」など学習の目的に応じたノートを販売しています。中身は国語であれば、縦に文字を書くようにガイドが描かれています。算数であれば数字の学習をしやすくなるようなガイドがあったり、罫線のような柄であったり、そして、それぞれマスの広さなどバリエーションがあります。
そして「自由帳」はそれらのガイドがなく「無地のノート」です。目的でタイトルをつけているシリーズですから、自由帳は「自由に描くノート」なんでしょう。しかし、よくよく考えてみれば、自由帳ではなくても、算数のノートに漢字を書いてもなんら問題はないし、こくごのノートで計算をしてもなんら問題はありません。ガイドの制約とはいえ強制制約ではなく、あくまでサポートです。
つまり、自由帳ではなくてもユーザが何をするかは「自由」であるのに、自由帳が存在しているわけです。(らくがき帳やメモ帳という名前でもありません)これを小学生自身が疑問に思うことは希だと思いますが、自由という言葉は哲学的です。そしてまた、その自由帳に小学生が何を書き込むのかというのはとても興味深い話です。
私が、大学生になったころ、なぜ自由帳という名前に疑問を持ったかというと、SFCという大学が自由帳みたいなものだという考えに至ったからです。他の大学の多くは、理学部情報科など具体的な目的があり、必修も比較的明確にあり、そういう意味で罫線があると考えました。一方SFCは、罫線すら自分でつくらなきゃいけない。そういう大学だということを考察したことがあったからです。
「ターゲットを絞る」ということ
さて、それからしばらくしてです。たぶん10年くらいした後です。
私はインタフェースやインタラクションの研究をしていたわけですが、「ターゲットを絞ることが重要だ」みたいな話を研究やビジネスの話でたまに耳にしていました。しかし「ターゲットを絞る」というと、なにか自分のつくり出そうとしているもののユーザや汎用性が狭まってしまって、「可能性が広がらないじゃないか、そういうのより汎用的なユニバーサルなものをつくりたい」なんて考えていました。
しかし、あるときでした。電車に乗っていたときのことです。ちょうど混雑していたのですが、目の前の人が読んでいる本の一部分が目に入ったのです。
そこには「ターゲットを絞るというと、その人しか利用できないように感じてしまうが、ターゲットを絞ったからといってそのターゲットだけが使うだけということはないから心配はない」「逆にターゲットを絞らなければ、それが「何であるか」が誰にも伝わらないで失敗すらしてしまう。魅力が伝わらない」というようなことが書いてありました。私はそれを見てハッとしました。
そうか、実装したものとターゲットを絞るということは、別に考えるんだ、と。説明するときにターゲットを絞るという戦略が必要なんだ、と。そして、ターゲットを絞りそれが「何」であるかをちゃんと伝えられることが大切なんだと気づきました。
よく例に出すのですが、慶應大学の増井俊之先生が、本棚.orgというサービスを開発しています。自分の読んだ本や興味のある本をコメントをつけたりして、管理、共有できるサービスです。重要なのはこのサービスの「本棚」という名前、定義です。このサービス名によって、Web上に自分の本棚をつくれるんだな。ということが容易に想像できます。しかし、実際は人によっては読書感想日記として利用している人もいるでしょうし、あるいは本を購入するために書かれたレビューを参考にするという人もいるわけです。「本棚」だからといって、本の管理システムとしてだけ使っているユーザだけしかいないわけじゃないのです。
たとえば、もし本棚.orgが「レビュー.org」だったら、正直イマイチでしょう。「レビュー」ではまず」何のレビューかもわかりません。増井先生が仮に本のレビューを集めるということを狙ってそういう名前をつけるにしても、同じサービスであってもユーザが抱くレビューというイメージと本棚はだいぶ違うと私は考えます。もちろん、本棚以上にもっと良い定義があるかもしれませんが。
『「何」が産み出す価値』
話は戻って学習帳の話です。
私はものやサービスをつくるときに、「国語のノート」「算数のノート」「英語のノート」というターゲッティングされた名前をつける発想が必要だと思っています。ノートという紙の技術はほとんど同じにも関わらず、ユーザがノートを必要として文房具屋に行ったときに、それらのノートは明らかに目的を達成するための価値としてユーザの目に飛び込んできます。もちろん、このブログを見ている方は小学生よりかは大人の方が多いでしょうから、国語のノートを今買うという価値はわかりにくいかもしれませんが、単にノートということではなく価値が付与されているわけです。
そして、罫線、無地、方眼などノートがあります。これらはスペックで表記しています。どう使うかはユーザの判断、ユーザにその価値を委ねられています。現在私たちは、それを国語のノートとして利用したりするわけですが、仮に無償でノートを与えられたときどう利用するかはユーザが考えなくてはその価値は生まれていきません。
コンピュータはノートに似ています。コンピュータの技術はマルチメディアであり、メタメディアです。「何」とするかが価値です。
研究者やメーカーとしてコンピュータの価値を提供していくためには、CPUやメモリではなく、あるいはタッチパネルかマウスかということではなく、どんな価値なのか、つまり、「罫線」というスペックではなく、「国語のノート」のように「何」なのかを提供していくことが今問われている思っています。
そして、まだコンピュータの歴史はその段階だと私は思っています。何であるかで、人の活動は大きく変わりますし、コンピュータの可能性も大きく発展します。
今のパーソナルコンピュータの形は、そういう意味で自由帳にあたるものでしょう。
私はそういう感覚から、コンピュータという技術を「何」でありえるかの可能性を探るために「アプリケーション」のプロトタイピングを通じて人間と技術の可能性と、目指すべきの理念のブラッシュアップを日々行っています。何であるかを考えるとき、どうしても既存の概念から発想せざるを得ず「メタファ」になりがちです。しかしプロトタイピングし体験をするうちに、そのメタファでは語りきれない何かに気づき始めます。それがプロトタイピングの醍醐味でもあると言えます。そして、重要なことはそれに新しい名前を与えます。そして定義を明確にします。新しい価値、プロダクトの誕生です。
またこういう話は今後も書いていきたいと思います。